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【NPO法人歴史資料継承機構じゃんぴん特別企画】おうちで古文書、おうちで資料保全 その1

※2020年5月2日に誤字脱字のご指摘を頂き訂正致しました。

NPO法人歴史資料継承機構じゃんぴん代表理事の西村慎太郎です。

本来でしたら昨日4月24日より南伊豆町肥田家文書保存・調査活動の予定でした。

多くの方にご参加頂ける予定でしたが、covid-19感染防止のために中止させて頂きました。

南伊豆町の方がたにお会いし、一緒に地域の歴史を学ぶ機会がなくなったこと、大変残念です。



また、現在、各大学の講義・演習もままならない状態です。

西村は歴史資料の保全と活用の実践をテーマとした大学院の授業を持っており、

学部生をはじめ、多くの方に受講頂き、その皆さんは歴史資料の保全の現場で活躍しています。

その授業の機会が奪われていることも大変残念であり、危機感を覚えます。



そこで本来、南伊豆町肥田家文書保存・調査活動を行う予定だった27日までの間、

当該地域の貴重な歴史資料の紹介・解説行います。

大学で古文書の勉強を望んでいる皆さんの一助になれたらと考えています。



以下の写真は南伊豆町肥田家文書保存・調査活動のひとつです。

写真の下に翻刻と各用語の解説を掲載します。

ぜひご自宅で読んでみてください。

質問は当会まで御連絡頂きたいと存じます(info@rekishishiryo.com)。

読んで、当該地域の歴史に関心を持って頂くことも大事な歴史資料の保全です。

然るべき時、一緒に南伊豆を訪れ、歴史資料の保全を実践しましょう。



2020年4月25日

NPO法人歴史資料継承機構じゃんぴん代表理事・西村慎太郎

















機Ы佚
静岡県南伊豆町肥田家文書9-20-7



供翻刻
(表紙)

  享保十五年戌八月願出
  秣山論石部・岩地願書扣写
  同當村返答書之扣写
         豆州賀茂郡伊濱村
                       」
     乍恐以書付御訴訟
            斎藤㐂六郎御代官所
               豆州加茂郡
                  石部村
                  岩地村
                   惣百姓
            太田備中守様御知行所
               同國同郡
                  伊濱村
             相手   名主五郎右衛門
                   与頭藤三郎
一、石部村・岩地村之儀、田畑之養苅敷秣を以
麁田之村方ニ御座候間、田畑仕付仕候、隣郷伊
濱村大野と申秣山、往古より入會ニ苅来候處、
伊濱村去酉春太田備中守様御知行ニ
相渡候以後、入会セ候儀不罷成候由申之候
得共、右野ニ而苅入不申候而ハ、外ニ秣場一
圓無御座、田畑亡所ニ罷成候間、御當地迄
御願申上候、右大野与申所大場ニ而、
伊濱村よりハ手遠ク、秣鎌入不仕場所ニ
御座候、入合拙者共両村御相料雲見村・
子浦村、備中守様御知行岩科村右五ヶ村
入会来候所、右之内三ヶ村ハ古来之通入会セ、
拙者共両村斗入会せ不申候、偏入会を相止メ候
悪工ニ而、右三ヶ村与伊濱村申合候義与奉存候、
伊濱村を始メ、入会五ヶ村共ニ御一料之
節、御代官様御替之度々村差出シ帳
面ニ古来より右野へ入會候儀、銘々書記、
三嶋御陣屋へ茂相納置申候、其上拙者
共弐ヶ村之儀者、往古雲見村之枝郷ニ而、
御座候處、当時壱村ニ相別候得共、雲見村
入会候得者、両村入会可申儀、勿論ニ奉存候、
其上拙者共村方を相隔り弐里程打越
岩科村茂入会候間、野附之拙者共、両村
入会ニ無之段、伊濱村申候儀、不調法成拙者共
故、申掠候間与奉存候、御検使様被下候得者、
相知候儀ニ御座候處、伊濱村悪工を以、今更
難渋仕候段、迷惑ニ奉存候、右入会之雲見村・
子浦村・岩科村三ヶ村ニ茂御尋被下度奉願候、
一、去夏中より右野へ両村参候得共、伊濱村之者共■(墨抹)
罷出、打擲仕、鎌・鞍押取、秣為苅不申、番人
附置、差留候間、左様ニ而者両村田畑亡所ニ
罷成候、迚茂捨り候草場ニ而、入会来候義茂
無紛候間、致了簡給候様、元来地元之儀ニ候間、
色々相侘候得共、何分向後不罷成候由、我
侭申候故、当二月道部村御役所迄相願候
處、御吟味可被下由ニ而、三月末伊濱村より
返答書差出候由ニ而御渡被下候處ニ、色々
無筋儀申上、古来入会与申儀無之由申候
得共、田畑之養何を以仕付ケ仕来可申候哉、
近郷村々ニ茂他村之地ニ入会来候場所
多ク御座候、何分其通難仕、当表へ御
願可罷出由申候處、御内領松崎村名主
孫兵衛・備中守様御知行道部村名主十左衛門・
岩科村名主新三郎右三人取噯を以相済度
旨申合候由、孫兵衛申候間、困窮之百姓出入ニ付、
罷出候儀難儀仕候、何分前々之通入会セ給候
得者、申分者無之由申之、御江戸へ罷出候義
相止メ申候、其後双方存寄取遣御座候
上、伊濱村大野ニ而入会セ候分、野地境を
立、其境切、入会セ可申由、伊濱村申候間、此通ニ而
相済候様、孫兵衛申候、右大野与申候而茂、右名所
相別大分之廣場ニ候所、入会候儀、境相立、
内々ニ而異見仕候ニ付、任其意候、然所道部
御役所へ伺置候間、御差圖次第双方
出合可相済由ニ而、四月中より七月迄何之沙
汰無御座候、然共伊濱村ニも得心之儀、
相済可申事之様奉存罷有候處ニ、七月ニ
至り不得心之儀、孫兵衛迄申来候由、差懸り候
秣場相止メさセ置、今更難心得挨拶
候旨、孫兵衛へ申候處、伊濱村不届ニ候段、
此者茂難心得由申候、如何様之工ニ御座候哉、
伊濱村我侭之致方、右三ヶ村へ御尋
被下候様奉願候、委細之儀者御尋之上、
口上ニ可申上候、
右之趣被為 聞召訳、両村往古之通百姓
相續罷成候様、伊濱村之者共我侭不仕
様ニ被 仰付被下候者、大勢之百姓御救与
難有奉存候、以上、
 享保十五年戌八月
                 豆州加茂郡石部村惣百姓代
                            名主 長三郎
                 岩地村惣百姓代
                            名主 三郎右衛門
 御奉行様



供内容把握
享保十五年戌:一七三〇年。

秣(まぐさ):ゝ軫呂了料にする草、田畑の肥料にする草。

山論:山の境界や利用をめぐる争論。

石部(いしぶむら):現在の静岡県賀茂郡松崎町。駿河湾に面する村。もとは石火郷か。建暦元年(一二一一)北条時政が「石火宮」の供菜料に充てるため、松崎下宮(現伊那下神社)の鰹船の課役を免除。慶長三年(一五九八)「雲見之内石部之村御縄打之水帳」あり(石部区有文書)。同年の年貢目録によると、田一三町二反余、畑屋敷三町一反余。初めは幕府領、天明二年(一七八二)から同五年まで小田原藩領、文化八年(一八一一)旗本鈴木領。元禄郷帳では村高一七二石余。

岩地(いわちむら):駿河湾に面する村。鎌倉時代「閑谷集」に「いはち」が見える。近世の支配は石部村と同一。延宝六年(一六七八)村高四四石余、田一町四反歩・畑屋敷八町余。鰹漁が古くから行われている。明治十二年(一八七九)「勧業調査表」(松崎町有文書)によると、戸数九一・人数五一〇のうち、漁民が七〇、漁船二五で鰹節を製造している。また、風待ち港の一つ。

豆州賀茂郡伊濱村:駿河湾に面した村。普照寺所蔵大般若経の奥書に永徳元年(一三八一)「仁科庄伊浜郷」書写とみえる。小田原北条氏所領役帳には伊豆衆の肥田氏の所領役高として一五貫文落居・湯浜と見え、これが「伊浜」と目される。慶長三年(一五八七)年貢目録写(岩科区有文書)によると田一一町二反余、畑屋敷二町七反余。江戸時代の初めは幕府領、享保十三年(一七二八)上野館林藩領、同十九年幕府領、元文五年(一七四〇)館林藩領、延享三年(一七四六)掛川藩領、宝暦九年(一七五九)同藩領と幕府領の相給、のち一村が掛川藩領となる。寛永二年(一六二五)の年貢割付状(肥田家文書)には鹿皮二枚役がみえる。元禄郷帳では高一五七石余。

斎藤㐂六郎:幕府代官。

太田備中守様:館林藩主太田資晴。当時は若年寄。

苅敷:刈敷。山林などから刈り取って水田の肥料にする柴草。

麁田:粗い田圃。

田畑仕付:田植え。

入會:地域の住民が使用する共通の場所。秣や薪炭材、材木などの採取できる場所、池や海にも用いる。

亡所:田畑が荒れてしまったところ。

御當地:‖召療效呂凌佑紡个靴瞳匹辰討修療效呂鬚いΩ譟8翕所。江戸。

大場:大きな場所。

御相料:相給。領主が複数いる村のこと。

雲見村:現在の静岡県賀茂郡松崎町雲見。石部村の南西。「北条五代記」によれば、明応二年(一四九三)伊勢宗瑞の伊豆侵攻の際、「雲見」高橋将監が降伏している。天文十二年(一五四三)石部大明神宮棟札に「仁科庄雲見郷」とある。慶長三年(一五九八)の検地帳が雲見区有文書として遺っている。元禄郷帳では高一一五石余。文化十年(一八一三)「立鰹勘定割合帳」(雲見区有文書)によると三八〇本の鰹を捕獲し、松崎・岩地へ売却している。産物は魚のほかに海苔・薪・炭など。

子浦村:現在の静岡県賀茂郡南伊豆町子浦。近世初めは幕領、安永六年(一七七七)相模小田原藩領となったが天明五年(一七八五)より再び幕領となり、文化八年(一八一一)旗本河原林(瓦林)領となり幕末に至る。元禄郷帳では高一八一石余。寛永十三年(一六三六)浦々取締のため下田町と子浦村に浦高札が下され、寛文七年(一六六七)には湊明堂が設置。文久四年(一八六四)一四代将軍徳川家茂は上洛途上、強風のため子浦湊に入港し西林寺に宿泊するなど、湊は流通の拠点であるとともに、風待ち湊ととしても発展した。

岩科村:現在の静岡県賀茂郡松崎町岩科南側(なんそく)・岩科北側(ほくそく)。平城宮跡出土木簡にみえる「那賀郡射鷲郷」「那可郡和志郷」が当地に比定される。箕勾神社の延慶元年(一三〇八)棟札に「小工岩品郷住人捨次郎」とみえるなど、中世以来の棟札などが多く現存。慶長三年(一五九八)の検地帳あり(岩科区有文書)。同年の「岩科郷検地目録」によると田高六八九石余・畑屋敷高二二〇石余。ほかに道部村分も記されており、道部村は寛文四年(一六六四)に分村。元禄郷帳によると村高は一三〇九石余。鹿皮一四枚永一貫四〇〇文、舟役六艘計九〇〇文などあり。享保年間の村差出帳によると家数三一〇(うち水呑一〇九)。

御一料:ひとつの領地。

村差出シ帳面:村明細帳の類。

銘々:おのおの。

三嶋御陣屋:家康が伊豆七島まで含めた伊豆国を統治するために設置した代官所。初代の代官は伊奈熊蔵(忠次)。宝暦九年(一七五九)韮山代官所に併合されたが、三島陣屋は韮山代官所の出張所として明治四年(一八七一)まで継続。石垣の一部が現存している。

枝郷:開発によって新しい村がつくられたり、村高を分割して新村を設立したりしたとき、そのもとの村を本郷といい、元郷とも書いた。親郷・親村ともいう。これに対して新しくできた村を枝郷とか枝村といった。

打越:(「うち」は接頭語)越す。間にあるものを越える。

野附:野に隣接している。ここでは両村が大野に隣接している意味。

申掠:巧みにお話し申しあげて相手をごまかす。

御検使様:現場の臨検ないしそれを行う役人の称呼。

打擲(ちょうちゃく・うちなぐり):相手を殴ること。

為:使役の助動詞。させる。

迚茂:とても。

向後(こうご・きょうこう):今から後。今後。

道部村御役所:享保14年2月25日に館林藩太田家が伊豆に領地を拝領した際、道部村(現在の静岡県賀茂郡松崎町道部)に設置した陣屋。同19年9月25日に太田資晴が大坂城代に就任したため、伊豆国の館林藩領は幕領となる。元文5年、太田資晴が大坂城代在職中に死去し、太田資俊が継ぐと、再び伊豆国に領地が与えられ、道部に陣屋を設置。延享3年9月25日に掛川へ転封される。安永元年3月、道部の陣屋が湿地であったため、江奈(現在の静岡県賀茂郡松崎町江奈)へ陣屋を移転させた。

仕付ケ:稲を正しく生育させることから転じて、田植えの意。

当表:こちらの地方。

御内領:ここでは幕府領の意か。

取噯:扱い。仲裁・仲介すること。
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